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家を飛び出してから早15年。久々に母から手紙が届いた。手紙の内容は父の死だった。

【感動の】心温まるいい話2【大作】
852: 投稿日:2007/09/05(水) 21:07:40

15年前、実の父と大喧嘩した。当時俺は高校3年。
喧嘩の原因は俺の将来のことだ。
俺の親父は医師だった。
小さい頃は医師である父を尊敬していたし、医師になりたいとも思っていた。
だが年をとるにつれ、医師ではなく、画家になりたいとも思いだした。
そして転機は訪れた。
友達の紹介で東京で手広く絵を出している有名な画家と知り合えたのだ。
その画家は俺のことをすごく気に入ってくれた。
画家と医師。選択肢は2つあった。だがすごく迷った。
俺の気持ちは画家に傾いていたが、
父は反対するだろうと思い、理系の科目に力を注いだ。
だが画家もあきらめきれず文系の勉強もした。
一年間死に物狂いで両方勉強した。
そして俺は親には内緒で医大と東京の美大の両方を受験した。
医大はかなりてこずったが一応合格。美大は比較的楽に受かった。
しかし合格通知が届いたときに親に美大を受けていたことがばれた。
ばれた瞬間、父は複雑な表情をしたが、すぐに怒りだし、
「記念受験のつもりだったのか知らんがなんて無駄なことをしたんだ。
受かったからよかったものの医大に落ちてたら許さないところだ。」
とだけ言い、美大の合格通知をごみ箱に捨てた。
それがもとで俺と親父は大喧嘩した。母は横でおろおろしてた。
俺は父にとことん嫌気がさし、家を飛び出した。
ここでようやく決心した。俺は医師にはならないと。
正直迷っていたから踏ん切りがついてよかった。
しばらくしてから母が電話してきて、
「お父さんは私がなんとか説得するから美大にお入り。薄々感付いてたから…」
と言った。入学金や授業料は母がやりくりしてくれることになった。


[ 2014/09/06 21:30 ] 父親 | CM(7)

物心ついた頃から父親との折り合いが悪く、ほとんど話をした記憶がなかった。

158: ほんわか名無しさん 投稿日:2007/05/27(日) 18:07:37

携帯からの書き込みな上、文才が全くないので読み辛いと思いますが長文失礼致します。
物心ついた頃から父親との折り合いが悪く、ほとんど話をした記憶がなかった。
20代半ばで結婚を意識する人と出会い、同棲をする為に地元を離れる時も、母親とは仲が良かったのもあってお互い涙ながらに別れたけれど、父親からの言葉はありませんでした。
地元を離れて1年程経った時。父親の浮気が発覚。
私が高校の時にも同じ事があり「もう許せない」と母親は妹を連れて家を出て、アパートでの生活を始めました。
母親は「1年くらい別居してからどうするか考える」と言ってましたが、私には両親の離婚と言うのがいい歳をしてどうしても受け入れられず、母親には色々説得したりもしました。
ちょうどその頃、母親の勤め先の病院が業務を閉める事になり、母親は無職になってしまいます。
それを父親に話ました。
「母さん無職になっちゃうんだよ?□□(妹)もいずれ離れるだろうし、母さん一人で老後過ごすのは厳しいんじゃないのかな…」
二人共時々連絡は取り合ってはいたみたいなのですが、その話は父親には話していなかったらしく、私が話すと「そうか……」と一言呟き、少し考え込んだ様子でした。


[ 2014/08/27 18:01 ] 父親 | CM(0)

私が幼稚園くらいの頃に描いた下手くそな絵が 大事にしまわれてた

50: ほんわか名無しさん 投稿日:2007/03/04(日) 20:49:30

すこし長くなりますが、父の話をします。
うちは5人家族に犬が2匹、父は小さな会社の平社員で、決して裕福な家庭ではありませんでした。
無口でシャイな父は、普段から家族ともあまり話さず、友人も少ないようでした。
私はそんな父が大好きでしたし、時々休みの日に何も言わず遊びに連れ出してくれるのが、とても嬉しかったです。
母、姉、妹は明るくてお喋りでしたが、私だけは父に似たのか小さい頃から物静かで、
父とは言葉を交わさなくても、一緒にいるととても幸せでした。
今まで母には数え切れないくらい叱られ、叩かれたことも星の数ほどあります。
でも父に叱られた記憶はありません。もちろん叩かれたことも。
母に叱られて泣いている私を、やんわりと庇ってくれる優しい父でした。

そんな父が、突然入院しました。私が高校2年生の夏でした。
身体が大きくて丈夫だった父ですから、私も最初は軽い気持ちで、すぐ退院できるものだと考えていました。
でも、日を追うごとに父は痩せ細り、お見舞いに行く度に酸素マスクやら呼吸器やらが増えていきました。
それでも父は私がお見舞いに行くと嬉しそうで、特に言葉も交わさず、
病室に備え付けられたテレビを長いこと一緒に観たりしていました。
しかし、入院してから1ヶ月近く経ち、父は自分で呼吸ができなくなりました。
体内に機械を入れて呼吸しなければならない、
でもそうすると物も食べれないし言葉も話せなくなると、先生に言われました。
父は「治ればまたもとに戻るんだから」と言って、機械を入れる直前も、
特にたくさん物を食べたり話したりすることもありませんでした。

それから1週間も経たずに、父は眠るように亡くなりました。入院から1ヶ月とすこしでした。
私はすぐに現実を受け入れることができなくて、涙が出てきませんでした。
まだあのベッドに父が横になっているような気がして。
また父が家に帰ってきて、靴箱の上に自転車の鍵を置く音がするような気がして。


[ 2014/08/24 18:01 ] 父親 | CM(0)

ほんの20分でも家に寄らせてあげれば良かったなと今更後悔してる。

560: 癒されたい名無しさん 投稿日:2006/02/28(火) 22:48:26 ID:nezQgt77

いい話じゃないんだが。

3年前に父親が死んだ。
お見舞いとか便利性を考えて近くの内科しかない病院へ入院してた。
眼科への通院も必要だったのでそれは私が月に1回違う病院へ連れていってた。
その通院の時は家の近くを通るのだが
「ちょっと家へ寄っていきたいな」
といつも言われた。半日の休みしか取ってないし、その言葉もその時は面倒だなくらい
にしか思ってなかった。
しかし溶体は悪くなり、眼科の通院も救急車での移動になった。
それから半年くらいしたあたりだろうか、父は死んだ。

思えば三年、入院で家に帰ってなかった。
「午後から仕事だから駄目」といった言葉に「そうか・・・・」と残念そうに言う父の返事が
耳に残ってる。
ほんの20分でも家に寄らせてあげれば良かったなと今更後悔してる。

スレ違いスマン

 


[ 2014/08/20 12:01 ] 父親 | CM(0)

親父は若い頃に箱根駅伝に出たらしい。

518: 投稿日:2006/02/15(水) 04:24:57 ID:VBIQu8j/

小さい頃、よく親父に連れられて街中を走ったものだった。
生まれた町は田舎だったので、交通量が少なく、
そして自然が多く、晴れた日にはとても気持ちのいい空気が漂っていた。

親父は若い頃に箱根駅伝に出たらしい。
だから走る事が大好きで、息子にもその走る楽しさを教えてあげたかったのだろう。
もともと無口だった親父も、走ってる時だけはずっと俺に声をかけつづけていた。
普段の無口な親父がなんとなく怖かった俺は、その時だけは親父が好きだった。
そしてお袋が作ったタスキを使って、駅伝ごっこをしてりしてた。
今思えば、親父はまだ青春時代に生きていたのだろう。

中学に入った俺は、当然陸上部に入部した。
レースでは結構いい成績で、部活内でもトップレベルだった。
毎回応援に来てくれる親父は、俺がいい記録を出した日には必ず酒を飲んでいた。
そして真っ赤な顔して上機嫌で、俺に毎回同じ事を言うんだ。
「お前と一緒に、箱根走りたかったなぁ」って。

高校にいっても陸上は続けた。
でも思うように記録は良くならず、さらに勉強についていけないのもあってか
俺はいつもイライラするようになった。
勉強の事には口を出さないくせに、陸上のことばかり気にしてくる親父の事を、
鬱陶しく感じてしまうようになるのに時間はかからなかった。
親父が期待してるのは知ってたから、余計に顔を見たくない気持ちだったのだろう。
反抗期、というものだったのかもしれない。


[ 2014/08/19 18:01 ] 父親 | CM(0)

父親の死因は鬱による自殺で、私は高校が終わってから祖母からその事実を知らされました。

503: 癒されたい名無しさん 投稿日:2006/02/14(火) 07:14:55 ID:lfq1zSDg

上のいい話に涙をこぼしながら私も自分のささやかな話を書かせていただきます。
もうすぐ四十にての届こうかという毒女なのですが
実家から遠く離れたところに住んでいます。
先日母親が実家のアルバム類の入った物置を整理していたところ
私が四歳の頃に死んだ父親が私の生誕時に撮ったという私のスライドをみつけたそうで
ちょうど私の誕生日でもあり、送ってくれることになりました。
12枚ありました。


[ 2014/08/19 12:01 ] 父親 | CM(0)

「死にたい」という事を手話で表した時、先生は急に怒り出し、俺の頬をおもいっきり殴った。

492: 1/5 投稿日:2006/02/13(月) 05:50:13 ID:Ksv7Zq5b

俺には母親がいない。
俺を産んですぐ事故で死んでしまったらしい。
産まれたときから耳が聞こえなかった俺は
物心ついた時にはもうすでに簡単な手話を使っていた。

耳が聞こえない事で俺はずいぶん苦労した。
普通の学校にはいけず、障害者用の学校で学童期を過ごしたわけだが、
片親だったこともあってか、近所の子どもに馬鹿にされた。
耳が聞こえないから何を言われたか覚えていない(というか知らない)が
あの見下すような馬鹿にしたような顔は今も忘れられない。

その時は、自分がなぜこんな目にあうのかわからなかったが、
やがて障害者であるということがその理由だとわかると
俺は塞ぎ込み、思春期の多くを家の中で過ごした。
自分に何の非もなく、不幸にな目にあうのが悔しくて仕方がなかった。

だから俺は父親を憎んだ。
そして死んだ母親すら憎んだ。
なぜこんな身体に産んだのか。
なぜ普通の人生を俺にくれなかったのか。

手話では到底表しきれない想いを、暴力に変えて叫んだ。
ときおり爆発する俺の気持ちを前に、父は抵抗せず、
ただただ、涙を流し「すまない」と手話で言い続けていた。

その時の俺は何もやる気がおきず、荒んだ生活をしていたと思う。


[ 2014/08/19 10:01 ] 父親 | CM(0)

親父が俺を避けてたんじゃなくて、俺が親父を避けてたって事

246: 癒されたい名無しさん 投稿日:2005/08/07(日) 14:47:29 ID:xvuavxq4

いい話か泣ける話か分からんが、それでもいいなら一つ俺の話が有るが・・・
似たような話結構出てるから出すのは控えてたんだが、
それでも良いからさっさと書けよゴルァ!って人が居るなら書くよ


247: 癒されたい名無しさん 投稿日:2005/08/07(日) 14:59:01 ID:AkTSz0ZR

それでも良いからさっさと書けよゴルァ!


[ 2014/08/15 18:01 ] 父親 | CM(0)


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